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8mmキャメラ鎌倉スタイル

日々、様々なお題に挑戦する映像ディレクターのブログ。

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に. ピンチをどうやり過ごすか

「ピンチはクイズだ」とクリエイティブディレクターの佐々木宏さんが雑誌「広告(7月号)」のなかで仰ってた。クイズって楽しむものだから、そういう考え方はいいかも。「ピンチはチャンス」ってなるとがむしゃらに頑張って報われなかった時に疲れちゃうし、あとなんか一発逆転的な淡い期待感みたいなものも良くない。現実はそんなに甘くないワケだしクイズ気分なら結果がどう転んでも楽しめる。自分でだした珍解答が案外面白い方向へ転がればさらにラッキーだし。

仕事のこと、人との関係、家族、社会。日々噴出するピンチ(クイズ)に、真面目に答えるもよし、捻るもよし、ボケるもよし。要は自分が一番楽しんで、見てくれている誰かがいるなら、その人も楽しませてやろう的なところがいいんじゃないだろうか。
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に. 振りむくとハイブリッドカーである

企画プレゼンに向かうために自宅を出た時はひどい雨。傘をさして住宅街を歩いてるといきなりクラクション。めちゃめちゃ驚いた。振りむくとハイブリッドカーである。ただでさえ走行音が静かなのに雨とくれば気付くはずもない。高圧的な音に一瞬イラってきたけどこらえました。クラクションの力加減は案外難しいもので嚇かそうとして鳴らしたつもりじゃないだろうと…。運転者はおばさんだったしね。

外装のデザインやエクステリアのデザイン、ECO仕様ばかりじゃなくて音もデザインして欲しいな。鳴らされてもびっくりしたりイラっとしない感じの。

ブイン 
フェン
ビョン
ポイン
ワン
ニャー
オインク オインク

クラクションだけ進化しないなんてないでしょう。
是非!

に. 例外は認められないものか


 番組の最後に制作著作のクレジットを目にする機会があるでしょう。たいては企業ロゴをむやみにイジることは許されない。大きさや秒数、色まで厳密に指定されているものだ。つまり「デザインは変えちゃいけないもの」という観念がある。
 テレビのディレクションをしていると、制作著作のロゴを指定どおり(秒数・色・大きさなど)入れて「あぁここまでこぎ着けた(画完)」と安堵する場面だ。そんな時に「この画にロゴの色が合わないからロゴの色変えちゃおうか」とは言い出さないものだ。少なくとも私の場合は。
 先日、とある番組の(発注者側)プロデューサーから「ロゴの色変えた方が画に合うんじゃない」と言われ「えっ!?」と絶句。番組内容ともかく「そこ?」っていう感じです。でもこの際、プロデューサー的チェックの発言内容じゃないとか敢えて言わない。確かに変えた方が合うかも知れないけど、そんな簡単に変えていいものなの?と半信半疑。結局、ロゴはオリジナルのままで放送される結果になりましたが。

 これまでの経験に裏打ちされたふだん疑いもなくやっていることや考えを、ときに疑ってみなければならない。壊そうとしてみなければならない。歳を重ねても子どものような無邪気な発言・発想をしなければいけないなぁと感じるんです。くだんのPのように。

に. アカデミー信奉者じゃないけれど

先日アカデミー賞を見ていて感じたことがある。
それは人が人をリスペクトするという大切なことが当たり前にある光景。
賞がとれたとれなかったにかかわらず、あの場に居合わせた全員が幸福感に満ちあふれていた。


数年ブランクがあって、また仕事をさせて頂くことになったプロダクションがある。
そこの人たちのマインドがとても素晴らしく気持ちいい。
とくに代表のソウルに脱帽する。

馴れ合いや日和見で世渡り上手になるか、信条をハッキリ述べて時に衝突しながらも信じたクリエイション道をつらぬくか、そこには眼に見えない分水嶺がきっとあるはず。もちろん後者を選んで生きるべき。ブレない人生、なんていい響きだ(笑)。仕事には立場や役割があるし責任もそれぞれ。ただ、人はイコールだという当たり前のことを忘れたらおしまい。リスペクト、リスペクト。不軽の行いはそうたやすいもんじゃないことも確かなのだけれども。

に. ブーツを履いてみたら浮かんだ考え

おととい久しぶりにチペアのエンジニアブーツを履いた。少し背が伸びた感覚になっていつもの景色が少し違って見えた。物理的な2、3センチの差で変わる感覚って何だろ?

ここんところ何年も「米」のためにテレビをつくってますが、そろそろ作家仕事もしたいこの頃です。子供が家の佇まいをみて「あの家はロボットの顔に似てる」とか「あの雲はクジラみたい」とかいう見方みたいなものをうっかりすると忘れてしまいそうだ。テレビは「わかりやすさ」とか「ひとつの角度」をもってつくることがこれまでだとボクは感じてるし実際そういった番組づくりをしている。でも時々ジレンマに陥る事がある「果たしてこれでいいんだろうか」とね。かといって独りよがりなものをつくっても痛いし。「あの家はロボットの顔に似てる」「あっホントだぁ、言われてみればそう見える」的なところが素敵なんじゃないだろうか。

に. 宝物の尺度

電車を降りるとき、お母さんに手を引かれて乗ってきた女の子が悲鳴を発した。

その原因は、乗り込む際に、彼女が落としたチケットにあると、すぐに気付いた。

それはよく見慣れたものですぐに何かピンときた僕は拾って反転してしっかり席に座っていたお母さんに手渡した。


お母さんにとっては、期限が切れている時点で必要がなくて、席の確保が必要だったの(笑)。

女の子にとっては、ミッキーの絵柄がハッピーだったのよ。多分。

パスポート

に. 自分はどの瞬間を頑張ってメシ食えてるか考えた事ある?

僕らの仕事は専門職に近いと感じる。映像ディレクターといってもコンテンツによって必要なスキルやテクニックが違うので人それぞれのディレクションに作法があったりする。その作法(スタイル)がきっちり際立っていればディレクターとしてメシを食って行けると思う。
プロデューサーという立ち位置で仕事をしている人でも、予算やなんやかの都合で演出することがあるだろう。若い頃はディレクターやってたという経験の持ち主もプロデューサーには多いのも事実。そこでだ。プロデューサーがつくるモノとディレクターがつくるモノに際立った違いがなければ、そのプロデューサーはスーパーPだ。というか、ディレクターならプロデューサーがつくれない際立った演出をかたちにしなきゃ存在価値がないだろう。
ここからが言いたいことなんだけど、専門職であればあるほど「俺でも代わって出来るよ」と言われたおしまいなんだ。カメラマンにしても同じ。「ディレクターがまわすのとやっぱ違うね」って言われなきゃ。「どっからそんなアイデア湧いてくんの作家さん」って思われなきゃだめじゃん。だから常々、僕はディレクターとして自分は誰にも代われない仕事っぷり、完成物を出しているか客観的にみることがある。「偉そうに言ってどんなものつくってるの?」って思われるかもしれないけど、少なくとも「ディレクター交代!」って言われて降ろされたことはない。

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辰巳 昇 a.k.a.,tatchy

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